2012/05/30

『葬式仏教の誕生』メモ


 
  • 葬送方法が、火葬・水葬・土葬・風葬に大別されるが、万物を構成する四元素説と一致するところが面白い。
  • 韓国の葬儀は基本的には儒教式である。土葬が通常であるが国土の1%(ソウル市の1.6倍)が墓地として使われているため2001年に火葬を推奨する法改正があり現在は50%ほどが火葬になっている。
    儒教式の喪主は罪人の姿をする。朱子学において最重視される徳目である「考」と関連しており、子は親から無償の命を受け、償っても償え切れない罪を負っているとされるからである。
    夫をなくした妻は三日間は弔問客を迎えるたびに泣かなければならない。
    私営の墓園には、ソウル大学出身者専用の納骨堂がある。学歴社会は死後も続く。
    幼児死・他殺・自殺・交通事故による死は「異常」死者としてみなされており、恨みを持って死んだとされている。これを鎮めてあの世へ送るということが行われる。
  • 鎌倉時代以前の日本では、死は大きな穢でありこれに接したものは30日間の謹慎が必要であった。だから病気などになると、道端や溝、藪や川原に捨てられた。餓死や凍死などによって命を失ったものも多かった。貧しいものは自ら川原に移動して死を待つことも行われていた。庶民の間では死体遺棄や風葬は一般的であったと考えられる。
  • 奈良の興福寺や東大寺の僧侶ですら、上位のものでなければ大路に捨てられる可能性があった。東寺の僧侶は官僧であり現在で言う国家公務員のようなものであり、国家の安泰を祈るのが仕事なので、穢を避ける義務があった。
  • このようにかつての日本社会では死は遠ざけられるだけの存在であった。これに対して官僧ではない僧侶(遁世僧)の間で互いの死に際に助け合うという結社が出始めた。
  • また死が近いもの、近親者が死んで困っているものに対して、慈悲をもって穢を恐れずあえて近づき助ける僧もいた。「人を哀れむことは是清浄の心であり、汚穢の恐れはない」と論理が生まれてくる。
  • 官僧の生活はすでに乱れており、このような生活からはなれて遁世僧となるものがいた(官僧の間口が狭かったせいも大きい)。遁世僧は官僧からは汚れた存在ととして見られていた。遁世僧は戒律をきっちり守ることで汚れから守られると考えていたふしがある。官僧は穢から逃れる義務があったが遁世僧はこのような制約からはフリーだったので、死穢のタブーにとらわれずにすんだ。14c-15cにかけて遁世僧は天皇の葬儀を行うようにまでなる。
  • 放置されることが多かった死体でも、貴族や高僧などには、札や木や石や土盛などが目印として置かれることはあった。12c-13cにかけて墓石が普及し始める。弥勒の世まで長期にわたる目印として使われるようになった。
  • 葬式仏教は、きちんとした葬送儀礼を望む人々の願いにこたえた革命的なことであった。
  • 元来寺院と信者の関係は信仰に根ざしており流動的なものであったが、江戸時代に檀家制度が施行させたことで固定的となる。住職には様々な証文を出す権利があったので、言うことを聞かない檀家には、出さないとか送らせるなど「嫌がせらせ」をする僧侶も出てきた。このように特権にあぐらをかくようになっていった。
  • 特に浄土真宗は妻帯が認められているので寺を継ぐのは自分の子となることが多い。故に檀家との関係が代々にわたって深くなりやすい。檀家制度には浄土真宗は最適な宗派となった。
  • 現在の僧侶は、彼岸から此岸へと関心をシフトさせる必要がある。

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